昭和46年10月12日 朝の御理解



 御理解 第92節
 「神は一体じゃによって、此の方の広前に参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」

 取り次ぎ者に下さった御教えと思うですね、けれども金光様の御信心が打ち込めば打ち込んだだけ、所謂おかげが違うと言う事を言っておられる訳ですね、同じお参りをさせて頂くでも、朝参りをするのと自分の都合の良い時にお参りするのと、言うたらこれはもう打ち込みが違います、 もう昨夜は遅かったから昼参ろうと、例えば夕べは遅かったけれども、もう朝参りと決めたらどうでも朝参りのおかげを頂く。
 どうぞ明日の朝も、目ざましのおかげを頂きまして、お参りをお許し下さい、参らして下さいと言う、願いそれが打ち込みである、ですから同じお参り、同じお初穂を奉るでも、それほど違う、だから打ち込めば打ち込んだがた、おかげが違うと言う事なんです、本当に打ち込まして頂かねば馬鹿らしい、そこで同じ打ち込むと言うても、ただ自分の身楽、又は御利益のために打ち込んだんでは、おかげは一様であっても、お徳を受けると言う事にはならん。
 打ち込めば打ち込んだ方おかげは違う。参りゃ参るだけ、やはりね、けれども折角打ち込むなら、まあ言うなら神様に喜んで頂ける、金光大神にも喜んで頂けるそして自分も喜べると、そう言う信心を身につけて行くために打ち込みたい。ですから真の信心を頂かして貰おうと言う、向を変えなければいけない、どうでもここんところのここんところのおかげを頂かんならんではつまらん。
 それは打ち込んだだけおかげは受けても、信心しての値打ちと言うのは、この世で徳を受けて、いわゆるこの世で極楽と思わせて頂ける様な、おかげを頂くだけではなくて、それを死んだ先にも持って行けれ又はそれを子孫に残しておけれると言うものを、頂く事を願いとする信心、まあ言うなら信心を分からせて頂く事の楽しみが、打ち込みと言う事になってこなければならんと、言う事になります。
 お徳を受けるため、とか言う言葉ではそう申しますけど、実を言うたら真の信心が分かって行くところの喜び、分かって行くところの楽しみ、この九十二節と言うのはもう大変問題になる御教えですね、特にやっぱり取り次ぎ者にとっては、これは非常に有難くもあれば痛くもあると言う、御教えなのです。何処に参ったっちゃ金光様は同じです、どこにでも金光様は御座る、例えば福岡からみなさん参って見えられる、福岡から合楽迄にそうですね矢張り十軒以上でしょう。
 通り越えて見えるのは、教会の前を素通りして合楽へ来る、勿論信心は相縁、奇縁と言うからそう言う事になって来るのでしょうけれども、やはり違うおかげが違う、それは守り守りの力に依ること、けれどもその守り守りと言うのが、いつまでもその気を、例えば私にもし、力があるとしてもです、私がいつまでも生きとるちゅう事じゃないですからね、それはもう若先生になったら、おかげが受けられんごとなったと言う時代が来るかも知れん、ですからここんところをですわからにゃいかんと思う。
 成程親先生が居られる間は親先生に力があったから、これは此処だけの事じゃないですよ、私ども周囲の大変お徳を受けられた、力を受けられたと言う先生方がいくらも在られますよね、甘木に於いて然り久留米に於いて然り所謂福岡又は小倉あたりの、それこそ守り守りの力がすざましい働きになって、それがすさましい神のヒレイになって沢山の人が集まった、又は沢山の人がおかげを受けた。
 ところがね、これは大体言うたらつまらんのですよ、その先生がおんなさる間だけです、けれども矢張り皆がおかげおかげと、こう言うことになりますから、ここではおかげをうけられんけん、あそこに参っておかげを受けたと言う事になると、矢張り参って来る、昨日もある方がお参りをして見えました、ある教会の総代級の信心をしておられる、ここから四里位ありますでしょうか。
 昨日福岡に用があって福岡に行かれた、その時に教会に自分の手続きの教会にお参りして、今日はどうでも福岡に参りますから、帰り道をバスを利用させて貰いますから、合楽に是非お参りさせて頂きたいと思いますから、どうぞよろしくお願いしますと言うて福岡に行かれた、ところが肝心要のここを通るときは眠って素通りした、目をさまされた時はもう田主丸だった、もう仕方がないと思うて吉井迄行った。
 ところが急に自分の心の中にね、何かしらん心の中に引っ掛ると言うか、そして又吉井から取って返して合楽まで参って見えた、参って見えた時に私が今日は朝からあなたの事をしきりに頭に浮かんで来る、あなたの事を一生懸命お願いしよりましたと、こう私が申しましたら、先生実はこうこうだと今の話しをされた、はあここの先生の祈りが強いと聞いては居ったばってん、吉井に行っとるものを呼び返しなさる力があるとは知らなかったと、昨日言われました。
 成程朝私はその方の事をお知らせ頂いたから願いました。それでその方が此処へ来て願われたからすぐ私はその話しを致しましたら、実は私は出掛けに私どもの教会の神様にお願いして、今日は帰りにどうでも御引き寄せ頂きたい言うて、お参りをしましたけれども、つもりでしたけれども、ここを素通りした、しかもその辺まで、一つか二つ位のバス停位なら、後帰って参ると言う事もあるけれども、もうよかよかと言うて、田主丸で目がさめたばってん吉井まで行っとって、吉井から又参って来た。
 しかもそれは何かしらん、何かしらん何か引っ張られる様な思いで参って来たとこう言う、いやあこの先生の祈りの強いのには驚きました、改めて驚きましたと言うてから、えらいその事を言われましたが、今日の事を言えば守り守りの力と言うのじゃないでしょうかね、だからそういうものがいつも、有るとは思われないで、なら私が亡くなったら若先生の代、また二代三代となったら、そう言う人から祈られて参って来ると言う様な、又おかげを受けるから。
 守り守りの力によっておかげ受けるから、おかげに言うなら迷うて打ち込んで合楽で信心しとりますと言うのではね、それでは本当な事ではない、合楽では本当の信心が分からせて貰えるから、本当の信心をわからせて貰えるから、お参りすると言うのでなからなければいけん。一番はじめに仰っとられるでしょう、神は一体じゃからによってこの方のお広前に参ったからといって、別に違う所はないと仰る。だからどこの教会だっていいのだ、問題はだから参る人自身が、徳を受け力を受けておれば良いのであります。
 どこへ参っても同じそれを例えば先生、例えば初代と言う教会を開く、昨日はどなただったでしょうかね、うんやっぱりその方がそう言うておられました、とにかく此処の教会の場合は、先生が開かれたのではなくて、神様が開かれたのですからねと言う意味の事を言っとられました、けどそれはまあどこでも同じ事、初代の場合なんか最初から金光教の先生になろう等とは言うて金光様の先生になったのは居らん。
 そこに切羽つまったとか、そう言う働きになって教師の資格を取りそして布教に出た、ですからもとをとって道を開くものはあられの行をするから、御祈念力も強いし、辛抱力も強い、これは当たり前です、それを二代三代に求めるのは、求める方が無理なんです、と私は思う、ですから初代がいつまでもおられれば良いけれども、初代の亡くなられたら、後は火の消えた様になるならつまらんし、それと言う事は信者自体がおかげを受けられなくなった、信心もだからなくなったと言う事になるのです。
 そこで信者自体が一つおかげを受けとかにゃならん、力を受けとかんならん、と言う事になる。今日の御理解の最後のところにね、先生が朝早く起きるのとおそく起きるのは、信者が参拝の早い遅いにかかわるぞと、と言う事はどう言う事かと言うと、同じ打ち込むと言うても、それは打ち込みが違うからだからおかげが違う、だからここんところは打ち込めば打ち込んだだけ、おかげが違うと言う事を教えておられる、神様は現金なと言う程にはっきりしておるのです。
 段々そこのところの体験をさせて頂きますから、十年二十も朝参りが続く、朝参りだけではない、内容が変わって来る、と言う事になって来るのです、然もそのお参りがです、例えばおかげの楽しみもさることながらです、信心を分からせて頂くと言う事が、楽しみだと言う事になってこなければいけん。金光大神の御理解に、神様の御紋をお菓子にして売る様になったかな、ここまで道が広まったかと思えば、近藤さん嬉しいのう、又これまでは十人は十人、百人は百人参詣されると皆お願いがあったのじゃが。
 今日では百人参られても、参詣はわずかじゃ、百人参られても、願いはわずかじゃ、参詣と言う方が多くなった、これだけ天地の御恩を知るものが、増えたと思えば近藤さんかえすがえすも嬉しいのうと仰られておる、始めの間は十人参れば十人、百人参れば百人、お願いで参ったとこう仰る、この頃では天地の御恩がわかり、いわゆる信心が分り、いわゆるここは参詣と言うてありますが、言うなら信心が分かる事が楽しみに参って来る者が多くなったと言う意味の事を仰ったと思います。
 又はお礼参拝が多くなったと言う意味の事を仰ったと思います、お願いは僅かじゃとおうせられとります、ですから守り守りの力によってあそこはおかげが頂ける、御ヒレイがたっとるげなと言うて参って来る、なる程違いましょうけれどもね、そのおかげに只つられただけではいけません、そのおかげから信心に変わってゆかにゃいけん、信心が分かる事が有難い、信心が分かる事が楽しい。
 そしてそれは此処で言うなら天地の大恩がわかってとこう言う、天地の恩が分かったと、天地の恩を知るものが多くなったとこう仰る。神の大恩を知ればとか天地の恩を知ればと、言う御教えがありますね、本当に天地の大恩が分からして頂いたら、実を言うたらじっとしておられんのが信心です。天地の御恩が分かったら此処は信心の稽古場所御礼場所、稽古に通わなければ馬鹿らしい、御礼に参らなければ勿体ないと言うのが私は教会参拝の、本当の姿でなければいけないと思う。
 そう言うものが身について来る、そこでそれがどう言う事になるでしょう、信心が分かり言うなら天地の大恩が分かり、そう言うおかげをおかげと分る、雰囲気が家庭中に広がって行かん筈がない、自分の周辺に広がって行かない筈がない。御利益それはねふのよかったいと言われればそれまででしょうがね、決してふが良いのではない、間違いなしにおかげであるけれども。
 ならそれはふがよかとたいと言うならそれはもうそれまでです、けれども信心が分かって有難いと言うのは、言うならばその人の周辺に、漂って来るものだから家族を挙げての信心になる、自分の行く所行く所に、金光様の信心に帰依して行く人も段々多くなって来る。子供が家内が孫達がその信心をその様にして、信心を頂いて行かぬ筈がない、そしてもう金光様の信心とは、もう有難い有難いと言うて御礼参拝させて頂くのが当たり前、おかげを受けておる事又は、おかげをおかげと知る事によってです。
 神恩報謝の生活をする事が出来る、だけの信心を身につけておかねばいけないと言う事、そんなら初代が死んでも、亡くなってもお参りが少なくなる事はない。当然の事としてお参りが出来るだけの、信心を頂いとかねばならんと言う事。守り守りの力に言うなれば、左右される様な信心では駄目だ、そこから信心は入っても自分の言わば信心生活の尊さ、有難さをわからせて貰って、十人が十人、ここの場合でもそうでしたね、十人が十人、百人が百人、椛目時代のはじめの頃はみんな、お願いばっかりでしたよ。
 例え皆さんでも朝参りなさって居られるから、成程特別の願いがあって参られる方もあるけれども、まあ言うなら常連です、言うならいつも、こうして皆さんはこうして朝の御祈念にお参りなさる、かと言うて御礼をお届けなさって、例えば今日は何処何処にやらして頂きます、願いますと、これは願いではなくてもうお届けなんだ、実際はだから御礼参拝なんだ、病気をしとりますけん直して下さい。
 こう言う人間関係で困っとりますから助けて下さい、と言うのは例えば私共信心の一部にはそれはありましょうけれども、大体においてはお参りさせて頂く事は当然の事としてのお参りの姿が、今の皆さんの姿でなからなければならんのである。そう言う信念にならして頂いたら守り守りの力で、例えば守り守りの力がそこにはないに致しましても、おかげを受けられる道がちゃんとそこに付いて来る、それが金光様の信心、例えば初代の時代におかげを受けると言うのはね。
 御利益を受けるのではなくて、初代が踏んでこられた信心の道を、本気で習うとかにゃ出来ん、又教えておかねばならぬ、私はそう思います。あっちはもう親先生がおんなさる間ですよ、と言われる様な事では出来ん、親先生がおんなさる間に、親先生がそれだけ力を受けられた、そのを受けられたその力をです、私どもが頂いておかにゃ出来ん、御利益御利益に酔っておったり迷っておったりしたんでは、それはもう本当に何ですかね、かげろうの様なものです。
 有る様ですけれどもう、次ぎの瞬間には消えてなくなっておる、そう言う信心は馬鹿らしい、私は今日は九十二節から、そう言う事、神は一体じゃによって、何処へ行っても同じと言う信心をね、頂かにゃいけん、いや何処に参っても、おかげが受けられる信心を頂いとかにゃいけん、けどそれから先の御利益がです、違うと言うのは、守り守りの力によって違うのです。その守り守りの力によって頂く様な、おかげじゃつまらんと、その信心を頂いてです。
 信心に伴ってくるところの、おかげを受けると言う、信心を身につけとかねばいけない、そしてそこにですね、打ち込めば打ち込んだだけのものを、体験として実感さして貰える、人間と言うものはですね、どんなに信心がわかっとる様でありましてもです、わかっておる様でありましても、打ち込めば打ち込むだけ、違うと言うことを、信じ込むからです、実を言うたらお参りも続くとですよ、おかげなんかどうでも良いと言う事なんか、絶対ないです。
 ですからそれに一つのはずみが出来る、いわば鞭打たれる様な思いをする事もある、それはもう本当にね、もうその神様の所謂お働きですね、それを本当に身じかに感じる、打ち込んでる時と打ち込んでない時との違いを感じる。だから打ち込まねば馬鹿らしいと言う気合も出来て来て、言うなら朝参りが十年も二十年も続いておりますと言う様な、おかげになって来るのです、もうそれがくせになっとる、様な事ではいけません、矢張り参りゃ参るがた違う、だから違うからお参りするのではないけれども。
 けどもそこが人間です。矢張りお参りをずる気たりおろそかに致したりしますと、何とはなしに神様が遠のいて仕舞なさる様な気がする、所謂お気付けいてもお気付け、お気付けと気付かん様になる。私は合楽の場合でもそうです本当にお願い参りの、それこそ十人が十人お願い参りであったのが、ここまで成長して来たとは本当に、今日改めて有難いなあと思うた、教祖様のその御言葉を頂いてね。
 金光大神御理解頂いてお願い参りの人が少なくなった、勿論だからお道の信心が分かっていない人、又ご縁を頂いていない人達の場合にはです、やはりおかげ頂くために参っても来るけども、大部分の信者がそうでない、御礼参拝、もう当然の事として参る、まあ言葉にだして言えば簡単だけれども、実際は神様が打ち込むと打ち込まないの違いを、はっきりこの膚に感ずるから、心に思うから矢張りお参りも続く。
 つづくから益々言わば力を受けて行く事が出来る、守り守りの力に縋らず、自分自身の力が付いて行く事の楽しみの信心を頂きたい。今日九十二節から、これは非常に問題になる御理解、けど今開いて頂いた様な御理解なら、全然問題にならんと思うですね、御ひれいの立つところの教会はここ、それは私と誰とかさんは力が違うけんで、ここはおかげを頂くたいと、おかげを頂くところの者はそげな風に言うです、そこでおかげを頂かん教会の者は、こう言う御理解なんか説こうともしないです。
 先生あなたが力が無かけんと言われるですけん、だからそう言う意味でこの九十二節は、非常に問題がある。本当にこの教典からこれを抹殺したい先生方も、ある訳ですね、助からない教会の人達は、だからそう言う意味合いで問題になる、御教えです、けれども今日私が皆さんに聞いて頂いた御教えは、そうではないですね、守り守りの力にたよる様な信心ではつまらんと言う事。
 でおかげを頂く、守り守りの力があるなら自分自身その力を頂こうとする、信心にならせて頂いたら、二代になっても三代になっても、皆様の信心が緩む様な事はないだろうと言う事、もう自分自身の家に力がついとる、自分自身が徳をうけとる、そこに神は一体じゃによって、この方の広前に参ったからと言うて別に違うところはない、と言うおかげを頂かして貰える信心をね頂きたいと思うです。
 昨日ね私丁度三時頃でした、座らして頂いたら、そこで四五人の方がテープを聞きよった、そこで昨日の朝の御理解を聞いて有難いな有難いなと何回頂いても矢張り思います、思いよったらね、あの私共が青年時代に、松竹ですか蒲田と言うのがありました、鈴木傅明と言う俳優がおりました、一寸エキゾチックな顔したね、モダンないわゆる二枚目俳優です。鈴木傅明それを頂いてですね、鈴木進明と頂いた、進はすすむ明か。
 どう言う事だろうかと思うね、そこで鈴木と言う言うのはね、鈴と言うのは鈴虫の鈴です、教祖の神様が小さい時なんか、御様子を小野光右衛門さんが言うているですね、あの子は一寸違うて時々ね、じっと物を見つめられる様なところがあった相ですね、池の堤防なら堤防に腰かけて、じっと何を見取るか、何を感じとるか知らんけどじっとしとられる、ああ言う時は自分の心の中にね、金の鈴を打ち振る様な音色に聞きとれとるのではなかろうかと、言う意味の事を言うとられる。
 自分の心の中に金の鈴を打ち振る様な音色に自分ながら、自分の音色に聞き入っておられる様な、時であろうと言われる訳なんである。自分の心の中に有難いなあ、私が自分の御理解を何回も何回も頂きながら、有難いなあと思うておる、その心ですそれが鈴、木は心ですね、進明と言うのはここ四五日言っております、もう金光様の御信心はね、生き神の道辿らして頂くことだと、言っておりますね、それに進んで行っておるのだと言う事を言っております、ははあ私はこれより外にない。
 もういつもかつもがですね、いわゆる生き神金光大神を目指して、只こうして一生懸命御用さして貰うとる、これはもう実際にそうです、ここまででよかと言う事は決してない、いつも私の心は進もうと言う意欲に燃えておる、そうしたらね、その進明と言う字に、又神明と言うのはね、神の明らかと書いてある、神明、鈴木神明と頂いた、本当に感動致しましたです、自分の心の中にその喜びをです、頂き続けれる。そこに精進する、そこに焦点をおく、鈴木神明。
 いわゆる自分の心に有り難いものを持ち続け様と、進んで行くのが進明である、それを例えば昨日の私の場合なんかは、もう神明であった、言うなら私の心の中には生き神様が宿り続けて御座った、ずうっとこの御結界おるとき、鈴木傅明と言うその名はね、そこで私どもがです、そう言う鈴木、今申しました意味に於いて、自分の心の中に有り難いと思うその心をね、傅明とは伝えると書いてある、伝えて行く信心と言うものが、必要だと言うこと。だからどうでも私はね、これを皆さんに伝えとかにゃいかん。
 皆さんにおかげを渡すよりも、私の頂いとるその信心を聞いて貰うとかにゃならん、皆さんのものにしておって貰わなければならん。そう言う私も意欲に燃えておるので御座いますから、皆さんもその意欲に燃えての、信心にならなければいけん、でなかったらです、守り守りの力のある先生の所にご縁を頂いとっても、その守り守りが力を無くしたり、又なくなったりしたらもう金光様の信心が陽炎の様に消えて無くなったと言う実例はもう、実際もう沢山あるのですから、いいえ家はと思いよるです皆さんの場合は。
 けれどもですね、実際問題として例えば、他の教会の事実を見たらわかるです、ですからそう言う有難いと言うものをです、私が心の中に頂き家庭に持って行き、職場に持って行く、それを伝えて行くと言う信心なら、ほら金光様の信心すれば御利益がある、受けられるばいと言う事で、伝えていったんでは絶対に続かない、どうでも一つおかげを頂きましてね、お願い参りから、所謂本当の意味に於いての、御礼参りがもう当然の事としてできる、信心を身に付けたいと思うですね。
   どうぞ。